東京高等裁判所 昭和61年(う)218号 判決 1986年7月14日
主文
本件控訴を棄却する。
当審における未決勾留日数中一五〇日を原判決の本刑に算入する。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人原山庫佳及び同足立勇人共同作成名義の控訴趣意書並びに被告人作成名義の控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官長澤潔作成名義の答弁書に記載されているとおりであるから、これらを引用する。
一弁護人及び被告人の控訴趣意のうち、被告人の確定的殺意を認めた原判決には事実誤認がある旨の主張について
所論は、要するに、被告人は、本件被害者の居る部屋に入り、同女を見たとたんに血の気が引いたような精神状態となつて何がなんだかわからなくなり、その時点で殺意も殴打の意思もなくなつたものである。被告人になんらかの犯意が存したとしてもせいぜい傷害の故意があつたにすぎない、仮に犯行の態様に照らして殺意が認められるとしてもそれは未必の殺意に止まる、したがつて、いずれにしても、本件において被告人の確定的殺意を認めた原判決は事実を誤認しており、右の誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。
よつて、原審及び当審で取り調べた関係証拠を検討すると、被告人が、原判示三浦和義(以下、和義という。)から、同人の妻一美殺害への加担を持ちかけられて、これを承諾し、犯行場所は米国ロスアンゼルス市とし、和義が一美を同市に連れて行き被告人の止宿すると同じホテルに止宿させたうえ、被告人が和義の準備する凶器で一美の頭を何度も殴打して殺害する旨の犯行計画に従うこととしてその具体的手順を打ち合わせ、右打合わせに従い、同市に赴いたうえ、原判示ホテルの被告人の部屋で和義から受け取つた約一・五キログラムの重量のあるT字形の金属性凶器を持つて一美が独りでいる部屋に赴き、同室内で同女の背後からこれで殴打するという挙動に出たこと自体は、被告人が、原審及び当審における各供述、別件三浦和義に対する殺人未遂被告事件(以下、別件という。)における証言において自認するところであり、これに沿う関係証拠もある。また、右の殴打によつて一美が、後頭部挫裂創、出血多量等の傷害を蒙るに至り、右の挫裂創は、後頭結節部の中心位から真上方約五センチメートルの位置を下端として、創縁を接着させた状態では約四・五センチメートル、開した状態では約三・五センチメートル程度の長さのもので、縫合の数は凡そ四針程度のものであつたこと、右の傷は全治約一週間程度のものであつたことは、当日一美の診療に当たつた医師、同女の帰国後右受傷箇所の抜糸をした医師及び同女の受傷状況につき考察をした法医学者らの、原審で取り調べた各供述調書により明らかである。
所論は、本件犯行当時、被告人は殺意を喪失していたというのであるが、被告人は、逮捕(昭和六〇年九月一二日)後の、警察官、検察官による各弁解録取手続、勾留質問手続に際し、本件公訴事実と同旨の被疑事実につき、これを自認し、犯行当時殺意を喪失していた旨の弁解をなんらしておらず、本件犯行を行つた部屋と構造や家具調度品の配置等をほぼ同じくする東京都内のホテル客室で昭和六〇年九月二八日に実施された実況見分において、本件犯行当時の行動、状況を任意に再現してみせた(その経過及び結果は、同月二九日付実況見分調書に記載されている。)うえ、検察官に対する昭和六〇年九月二九日付供述調書二項において、本件犯行を決意した理由につき、「三浦からの殺人の依頼に応ずれば、同人の強い愛情とリッチな生活が同時に得られると思い、これを承諾することに決めた」旨自認するとともに、検察官に対する同月三〇日付供述調書において、本件当時一美の部屋に入つたのちの犯行状況につき、「この人が一美さんか、この人を殴つて殺さなければならないんだなと思い、体が緊張した。一美のへや内で同女がバスルームの出張り部分を通り過ぎ、鏡に映つた自分の姿が一美に気づかれることがなくなつたので、やるのは今だと思い、歩きながらの状態で右手に掴んでいた凶器の柄の部分をにぎりしめ、そのまま一気にずた袋から凶器を取り出し、一美の後頭部をねらつて殴りかかつた」、「できれば一発殴つて死んでくれればいいと思つていたので、私なりに精一杯の力で殴りかかつた」旨殺意を自白しているものである。そして、右各供述調書は、その供述内容が具体的、詳細であり、その前後の状況に関する供述並びに犯行現場の状態と併せ見ても不合理な点はなく、それ自体信用性が窺われるうえ、被告人が、本件犯行の数時間後、同市で知り合つた、原判示ホテル内の土産物店の従業員である乙山太郎に対し、「ある人は頼まれてその奥さんを殺そうとした」、「チャイニーズを装つてドアをノックし、あけたところをいきなりハンマーのようなもので殴りかかつたけれども、できなかつた」旨告白しているところにも大筋で符合し、さらに、右告白の内容が真実のものであると認められることは、被告人が本件犯行後帰国して間もなく、右乙山宛に出した手紙の中で、「アメリカでのことがまるで嘘のようです。しかし、私にとつてあのことは忘れてはいけないものと心に決めています。人間として最も大事なものも、もう少しで私は失うところでした。また、自分というものがどういう人間か、手にとるようにわかりました。」などとして、真しにその心情を吐露している事実に徴しても明らかであること、被告人は犯行後帰国したのち、友人の甲野花子に対し、「頭を殴つたんだけど、血を見たら怖くてできなかつた」旨話しており、殴打行為の認識があつた旨の供述記載を裏付けるものであること、その他、右調書録取の際取調官による強圧的取調べないし不当な誘導があつたことを疑わせるような証跡は認められないことなどにかんがみると、殺意に関する供述記載部分の任意性及び信用性を十分肯認することができる。
これに対し、所論の趣旨に沿う、「一美を見たとたんに身体中の血が引けるようになり、何がなんだかわからなくなつて、同女を殺す意思はその時点で失われていた」旨の被告人の、当審における供述、別件における証言部分は、前示の証拠ないし間接事実と対比して措信し難いものといわざるをえない。また、被告人は、原審において、所論の点に関し、「とにかく私が覚えていることは、左側の肩の黒いかばんの中に鉄のハンマーを入れており、それをとつさに、もう無我夢中で取り出して一美の頭に当てたというのが本当である」、「部屋に入つた時点では、とにかく三浦に云われたとおりに殴らなければいけないというそのことしか頭になかつた」旨を供述しているところ、右供述自体は、緊張のため夢中で犯行に及んだ事実を窺わせるものではあつても、殺意の認定を否定するに足りるものではない。
以上のような、本件犯行の態様、凶器の性状、殴打した身体の部位、受傷の状況及び犯行に至つた経緯並びに右信用性の認められる被告人の検察官に対する供述調書における自白内容等を総合して勘案すると、被告人の一美に対する本件殴打行為は、未必的殺意をもつてなされたに止まるものではなく、同女を殺害しようとの確定的犯意の下に行われたものと認めるに十分であるから、これと同旨の原認定は相当であつて、原判決に所論の事実誤認があるとは認められない。
なお、所論は、運動神経と腕力に優れた被告人が、仮に確定的殺意をもつて犯行に及んだとすれば、被害者に対しより重大な傷害を負わせた筈であるともいうが、犯行時被告人が精神的な緊張と焦りの下にあつたことが窺われること、被害者も被告人も歩行中であつたことを勘案すると、所論の点は右の認定を左右するに足りるものではない。論旨は理由がない。
二弁護人及び被告人の控訴趣意のうち、中止未遂の成立を認めなかつた原判決には事実誤認、法令適用の誤りがある旨の主張について
所論は、要するに、被告人は悔悟の念と被害者に対する憐憫の情から、自己の意思で犯行を中止したものであるから、原判決が被告人の犯行につき障害未遂を認めたことは、事実誤認又は法令適用の誤りにあたり、右の誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。
よつて、原審及び当審において取り調べた関係証拠を検討すると、被告人は、検察官に対する昭和六〇年九月三〇日付供述調書一六項で、「被害者の後頭部を凶器で殴ると同女は「ヒャー」という声を出しながら少し前にずれるような感じでしやがみながら、右手で後頭部を押さえ、左回りで私の方に振り向き、一瞬のうちに私の立つていた所まで体を起こしながら突進してきた。同女は、私が右手に持つていた凶器のT字型の鉄棒が交差するあたりの柄の部分を両手でつかんで引張り、すごい力で私から凶器を取ろうとした。取られまいとしたが、一美の顔は必死で、力も強かつたので、取られてしまつた。一美が私の方を振り向いた時に見せた顔は、目を大きく見開き私をにらみつけている様な感じに受けとれたので、その目が怖しくなり、おじけづいてしまつた。一美が必死であることがわかつたのでもう凶器を取り返すことはできないと思い、殺人計画は失敗したと思つて一美をそれ以上やつつける気がなくなつた」旨述べ、録取時右供述調書を読み聞かされた際も右の点と関連のない部分について訂正を申し立てたのみであり、また、検察官に対する同年一〇月一日付供述調書一項においても、犯行状況について右と同旨の供述をしたうえ、録取内容を読み聞かされた際、「一美が完全にしやがみこんだ訳ではないという意味の記載部分については、一美はいつたんはしやがんで腰を落しているので、訂正してほしい。しかし、次の瞬間に私の方を振り向いたことは間違いない。その他のことも間違いない」と述べているもので、右供述記載は、その内容が具体的、詳細で、それ自体信用性を窺わせるに足りるものであるうえ、前示のとおり被告人は右調書を読み聞かされた際訂正を申し立てるなどしていて、被告人の供述するとおり録取された状況が看取されること、さらには、被害者の一美が、本件後帰国したのち、その妹清美や両親らに対し、本件当時の状況について、「和義が中国服を作つてくれることになつていた。ホテルの部屋にチャイナドレスの寸法計りに来ましたとノックがあつたのでどうぞと云つてドアをあけたら女性が入つて来た。自分が歩き出そうとして後ろを向いたら、いきなり後ろからハンマーみたいなもので頭を殴られた。同女の持つている物を取ろうとしてもみあつたあげく、同女の持つていたハンマーみたいな物を取り上げたら、同女は、「ごめんなさい。ごめんなさい。」と云つて謝つた」という趣旨の話をしていること、及び、一美は運動能力があり、気丈な性格であつたと認められることなどにも符合すること(なお、とくに佐々木清美の検察官に対する供述調書謄本により認められる、一美が右のような話をした際の態度、状況にかんがみ、同女が虚偽の話をしたものとは認められない。)、その他未遂の態様に関し記録上取調官による強圧的取調べないし不当な誘導等がなされたことを疑わせるような証跡が認められないことなどに鑑みると、右に引用した検察官に対する供述調書の記載部分の任意性及び信用性を十分肯認することができる。
これに対し、「何がなんだかわからなくなつたのち、はつと気がつくと一美は私に背中を向け頭に手を当ててしやがみこんでいた。四、五秒たつてから私の方に振り向き、すぐに凶器を取り上げられた。取られたというよりも私がすぐに手渡した」旨を述べる、被告人の、原審及び当審における供述、別件における証言部分は、前示証拠ないし間接事実と対比して、これを措信し難い。
以上によれば、被告人の本件犯行を障害未遂と認めた原判断は相当であつて、これに所論の事実誤認ないし法令適用の誤りがあるとは認められない。論旨は理由がない。
三その余の控訴趣意について
弁護人及び被告人の各控訴趣意は、被告人が本件犯行を決意したのは、和義の妻にとつて代ろうという狙いや保険金の分け前にあずかる意図に出たものでなく、盲目的な女心から同人に尽くす気持に出たものである、本件において周到な計画をめぐらし、準備を重ねたのは和義であつて、被告人は同人の計画を黙つて聞いていただけであり、被告人には利慾的な動機も高度の計画性もなかつた、被告人は、当初和義の甘言に惑わされて殺人を決意したものの、具体的な話が進むにつれて、良心の呵責から気が重くなり、実行行為直前にはかつて同人に対して抱いていた信頼と愛情も失われ、東京で同人から「裏切り者は許さない、親兄弟も殺す」と云われていたことを思い出し、同人に対する恐怖心からやむをえず、犯行に及ぼうとしたものである、ホテルの自室から犯行に赴く際髪型を変えたのは変装のためではない、などとして、これらの点に関する原判決の認定には犯行に至る経緯ないし情状に関する事実についての誤認がある、というのであり、弁護人の控訴趣意は、さらに、以上の理由のほか、被告人は若年で、前科前歴がなく、本件を深く反省していること、被告人が自首に準ずる形で警察による任意の事情聴取に積極的に応じたうえ、すすんで自白し、本件捜査に全面的に協力していること、被害者の両親に対して誠意を尽くして十分に謝罪し、被害感情も改善されていることなどに照らすと、被告人に実刑を課するのは酷に失し、その刑の執行を猶予するのが相当であり、原判決の量刑は重過ぎて不当である、というのである。
そこで、原審及び当審において取り調べた関係証拠により、本件犯行に至る経緯及び犯行状況を含む事実関係を検討してみると、被告人は、原判示のとおり、昭和五六年五月ころ三浦和義を知り、同人の身ごなしや言動に都会的な魅力を感じて心を惹かれ、間もなく肉体関係を持ち、とくに同年七月初めころ、同人の画策によつて以前の愛人から妊娠を種に慰謝料を入手してからは同人への信頼感を深め、同月一〇日ころ、同人から、同人の妻一美が競争相手の会社に情報を流してその社長と浮気をしており、子供の面倒をみない、妻を殺してくれれば保険金を半分やるなどと云つて、殺人への加担を持ちかけられるや、同人の意に沿つて行動すれば同人の最愛の女になれる、自分の人生を和義にかけようという気持やこの点は受動的立場にあつたとはいえ保険金により多額の金員を取得することへの期待などから、発覚のおそれはない旨同人から説かれるまま、右殺人への加担を決意して、その翌日同人に承諾の意を伝え、その後両名の間で、主として和義の案出するところにより、犯行は発覚のおそれの少ないと思われるロスアンゼルス市で行うこと、被告人は同市を含む観光ツアーに参加し、和義は一美を伴つて被告人と同じホテルに泊り合わせるようにすること、犯行はツアーの自由行動日である現地日八月一三日とすること、凶器は和義が準備し、被告人が殺害の実行にあたること、和義は一美が一人在室している時に襲えるよう手配することなどを含む犯行の計画を立て、右計画に従い、被告人は、原判示ロスアンゼルス市内のホテルに赴いて宿泊し、本件犯行前、自室で、和義から、和義夫婦の部屋番号や一美の特徴・服装、同女が中国服の仮縫いのため中国系女性が訪れるのを一人で待つよう段取りをつけてある旨を告げられ、凶器として用いるための原判示約一・五キログラムの重量のある金属具を受け取り、その他犯行に際しての様々な指示を受け、これが終つて帰国したら結婚しようとの言葉を聞いて一美殺害の意思を一層強めたうえ、一人在室していた一美を訪れ、格別警戒をしていない同女の背後から、所携の布袋から右手で前記凶器を取り出しざま、同女を殺害する意思でその後頭部を一回殴打するという犯行に及んだものの、焦りもあつて見当が狂い、同女を制圧するに足りる打撃を与えるに至らず、却つて同女から反撃されて凶器を取り上げられたため、同女に全治約一週間を要する前示のような後頭部挫裂創を負わせたのみで、同女殺害の目的を遂げなかつたことが認められる。
所論にかんがみ、以下に、若干ふえんして判断を示すこととする。
所論は、先ず、『被告人には保険金の分け前にあずかる意図はなかつた』というが、被告人は、捜査段階で、犯行の動機は、これにより和義の愛情と経済的に豊かな生活を同時に得られると考えたことにある旨供述しているうえ、原審第一回公判において、公訴事実中「生命保険金を入手する目的で」とある点につき、この目的は付随的なもので、主たる目的は別にあつた旨陳述し、保険金入手目的も犯行の動機の一つであつたことを自認していること、被告人は、本件犯行を行うため渡米する日の前日、友人の甲山愛子に会つた際「明日仕事でロスアンゼルスに行く。行くだけで大金が貰える」旨を話していること、本件犯行後前示乙山太郎に犯行を告白した際、犯行の動機を尋ねられると、「和義から同人の妻に三〇〇〇万円の保険がかかつていて、うまくいつたら一五〇〇万円を山分けしてもいいと云われた。そして、結婚のことを考えていると云われた」旨述べ、犯行後帰国したのち、友人の甲野花子に対し、「実はお金のために人を殺そうとした」旨告白していることなどにかんがみると、被告人が本件犯行に及んだ動機の一つに保険金による多額の金員を入手することへの期待が含まれていたことは明らかである。
所論は、また、『本件において周到な計画を立てたのは和義であつて、被告人は、同人の計画を黙つて聞いていただけであり、被告人に関する限り高度の計画性はなかつた』というが、本件計画を主として案出したのは和義であると認められることは前示のとおりであるものの、被告人は、その検察官に対する昭和六〇年九月二九日付供述調書で、本件犯行の計画を立てる過程において、「ロスならやつてもいいわ。」とか、頭を殴つて殺すという方法を提案された際「それぐらいなら私にでもできると思う。」と述べるなどし、犯行の場所や方法を決するにつき被告人の考えも採り入れられた状況を述べているところ、右供述内容は、具体的で迫真性にも富み、それ自体信用性を窺わせるに足りるうえ、取調官から録取内容を読み聞かされた際も右の点と直接関連のない部分ではあるが訂正を申し立てるなどしていて、被告人の供述するとおりに録取された状況が看取されること、その他所論の主張する不当な取調べを疑わせるような証跡が認められないことなどに徴し、その任意性、信用性を十分認めうるうえ、被告人は、別件における証言においても、犯行方法につき、和義から、「ミチ、殴るんだつたら簡単だからできるだろう。」と云われて、うなずいた旨述べ、被告人が犯行計画の立案自体になんら関与しなかつたわけではない旨を自認しているのであり、とくに、被告人は、本件犯行計画における殺人の実行行為者として予定されていたのであつて、計画を確定するにあたり被告人の意向を無視することなどは考えられないことを考慮すれば、前示のとおり、右計画が主として和義の案出、主導にかかるものであるとはいえ、実行行為者となる被告人もこれに参画したものであることは明らかである。
また、被告人が犯行のため渡米する直前に会つた友人の甲山愛子に対し、思いつめた様子で、「明日仕事でロスアンゼルスに行くの。行きも帰りも旅費を出して貰つて行く。行くだけで大金が貰えるの。自分にとつてチャンスなの。」と語り、さらに、「大きな仕事で自分の身がもしかしたら危い。もし自分の身に何かあつたら警察に渡してほしい。」と云つて、同女に、被告人の検察官に対する供述をも参酌して認められるところによれば和義の会社の電話番号を記載したメモを託し、被告人が只ならぬことを企てているものと考えた同女から、やめた方がいいと忠告されると、「もう決めたの。」と答えている事実などに照らすと、被告人が前示の犯行計画に基づく本件の犯行に自発的に加担したものであることも明らかである。
次に、所論は、『被告人は、いつたん殺人を決意したものの、その後良心の呵責から気が重くなり、実行行為直前には、和義への信頼と愛情も失われ、東京で同人から「裏切り者は許さない。親兄弟も殺す。」と云われていたことを思い出して、同人に対する恐怖心からやむをえず犯行に及ぼうとしたものであつて、一美にとつて代つて和義の妻になろうという狙いから犯行に及ぼうとしたのではない』というが、被告人が一美殺害を決意してからその実行行為に及ぶまでの間に、とくに犯行のため渡米するころからは、犯行のことを考えて気が重くなり、不安感に襲われることもあつたことは、本件ツアーの同行者らの供述によつても窺われるものの、被告人は、その検察官に対する昭和六〇年九月三〇日付供述調書において、本件の渡米前の段階で和義から「殺人依頼に応じないとひどい目に会わす。」とか「同人を裏切つたら殺す。」などと脅かされたことはない、同人に対し裏切つたら殺されるのではないかという恐怖心を抱いたこともない旨を述べているほか、本件犯行当日の午前に和義が被告人の居室に来た際も、また、犯行直前に、和義が、「これから行つてくれ。」という犯行の決行を促す電話をかけてきた際も、同人から、「一美を殺さないと被告人や被告人の家族を殺す。」などと云つて脅かされたことは全くない旨をとくに述べているのみならず、却つて、犯行当日和義が部屋に来た際、同人から、「頑張れよ、ミチ、これが終つて日本へ帰つたら結婚しよう。」と云われて犯行の決意を一層強めた旨を述べているところ、右供述記載の内容は、被告人が、犯行後前示乙山太郎や甲野花子に対し犯行を告白した際、和義に対する恐怖心からやむなく犯行に及んだという趣旨の話をなんらしていないことが窺われることに符合し、その内容も具体的かつ詳細で、その前後の状況に関する供述と併せてみても自然なものであつて、それ自体に信用性が窺われるうえ、録取時右調書の録取内容を読み聞かされた際も右の点と関連のない部分につき訂正を申し立てたのみであり、もとより右調書には被告人の署名指印がなされているなど被告人の供述するとおりに録取された状況が看取されること、その他、所論主張の不当な取調べの証跡が認められないことなどに照らし、その任意性及び信用性を十分肯認することができる。さらに、被告人は、原審においても、「本件当日、和義が私の部屋に来た際同人から結婚しようと云われて、正直に云つてすごくうれしかつた。しかし、これからしなければならないことを思うと、うれしいというよりも不安の方が大きかつた。」などと供述し、犯行前に和義への信頼や愛情が失われたとはしていないのであつて、これによれば、被告人の当審供述及び別件における証言中、犯行前和義に対する信頼や愛情が失われていたとする点は信用すべき限りでないし、また、「犯行前先に東京で和義から、裏切つたら親兄弟も殺すと云われていたことを思い出し、同人に対する恐怖心からやむをえず犯行に及んだ」旨を述べる、被告人の原審及び当審における供述、別件における証言部分は、以上に示した証拠関係に照らして、これを信用し難い。
以上によると、被告人は、関係証拠上明らかな、和義の意に沿うように行動してその愛情を獲得したいと願う気持、及び、前示のような、保険金により多額の金員を取得することへの期待から、本件犯行加担を決意し、犯行当日には、和義から、「これが終つて帰国したら結婚しよう。」との言葉をかけられ、同人との結婚という夢を実現できることを思つて犯行の決意を一層強めたことが認められるから、右の点に関する所論は採用することができず、「被告人に共犯者の妻にとつて代ろうという狙いがあつた」旨を判示する原判決に誤認があるということもできない。
所論中、被告人が犯行に赴く際髪型を変えたのは変装のためでないという点につき検討するに、当審で取り調べた写真四葉及び被告人の当審供述によると、被告人が、本件のツアーに参加した期間中髪型をいわゆるポニーテールにしたのは本件犯行の際だけではなかつたと認められることは所論の指摘するとおりであり、被告人は犯行前変装というまでの深い考えではなく身軽な髪型に変えたにすぎないと認める余地があるものの、いずれにしても、右の点は、本件犯行の経緯態様に照らせば、判決に影響を及ぼすに足りる事項に関するものではない。
なお、当審で取り調べた前示写真四葉及び被告人の当審供述によると、被告人は、本件犯行の際に着用したシャツやサンダルを、本件のツアーに参加した期間中の他の機会にも着用していることが認められ、これによれば被告人の検察官に対する昭和六〇年九月三〇日付供述調書中、「一美を殴つた時に着用していたシャツやサンダルは、この時に着用しただけで、ツアー期間中他の機会に着用したことはない。」とする記載部分は事実に反することになる点は所論指摘のとおりであるが、このことは、いまだ、前示本件事実関係に関する検察官調書の記載部分の任意性及び信用性を左右するに足りるものではないと認められる。
以上によれば、前示したところと大筋で同趣旨に帰するものと認められる原判示に至る経緯ないし情状に関する事実についての判決に影響を及ぼすべき誤認があるとは認められない。
以上に認定した事実を前提とし、その他関係証拠を検討して判断するに、本件犯行は、罪質自体が重大かつ悪質なものであるうえ、犯行の動機において自己中心的で、かつ、利慾的な面もあつて、その間に特段の斟酌すべき事情を見出し難いこと、本件犯行計画は主として和義により案出、主導されたものであるとはいえ、被告人は犯行に自発的に加担することとし、気が重くなつたり、不安を感じたりしたことはあつても、終始一美殺害の決意を翻すことはなく、はるばる渡米したうえ、自ら本件の実行行為を担当したものであること、犯行の態様も、被害者の後頭部を前記の金属製の凶器で殴打するという危険度の高いものであつて、被告人が、被害者により接近して被害者の頭部を殴打し、打撃部位が同女の頭頂部付近に及ぶなど被告人と被害者との位置関係、打撃部位のいかんによつては、より重大な結果が発生したものと容易に考えられること、殺害の目的を遂げるには至らなかつたとはいえ、前記のとおり右殴打した部位に必ずしも軽微とはいえない傷害を負わせていることが認められること、一美はその後死亡しているところ、その両親等において本件につき被告人をいまだ宥恕するに至つていないことなどの諸事情を総合して考慮すると、犯情は芳しくなく、被告人の刑事責任にはゆるがせにし難いものがあると認めざるをえない。
してみると、本件犯行が未遂に止まり、被害者に対しとくに重大な傷害を負わせるには至らなかつたこと、被告人が本件犯行に及ぶに至つたについては、和義から利用された面があると認められること、主として犯行計画を立て、その手順を整えたのは和義であつたこと、捜査機関が、被告人による本件犯行に関する申告前、すでに本件容疑事実の概要を把握していたことが認められるので、法律上の自首の成立は否定されるものの、被告人は、捜査官に対し逮捕前本件犯行の概要は申し述べていること、被告人が本件に加担したことを反省し、現在は償いの気持で勾留生活を送つているものと認められること、父親を通じて被害者の両親に対し種々の形で謝罪を尽くしていること、被告人は、いまだ年が若く、犯罪の前科、前歴がないこと、被告人の父や友人乙野次郎らが被告人の今後の更正に協力する旨を申し述べていること、本件が広く報道され、社会の耳目を引いたことにより、被告人が精神的、社会的にかなりの制裁を受けるに至つたものと認めるに足りることなど、被告人に有利な、ないしは、被告人のため酌むべき一切の事情を十分考慮してみても、本件が刑の執行を猶予することを相当とするような事案であるとは認められず、未遂減軽のうえ、被告人を懲役二年六月の実刑に処した原判決の量刑は、その刑期の点を含めてまことにやむをえないものと思料され、これが重きに失して不当であるとまでは認めることができない。論旨はすべて理由がない。
よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却し、当審における未決勾留日数の算入につき刑法二一条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官時國康夫 裁判官礒邉衛 裁判官坂井 智)